重さ452.0g縦10×横6×奥行4cm不動明王の純金仏でございます。ずっしりと重い重量感と心地良い安心感。今まで数々の純金仏を販売してきましたが、造形的にも純金仏としてはかなり芸術性の高い逸品です。専用ケース付。東堂と純金刻印有。
不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ ([acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。また、五大明王の中心となる明王でもある。
密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。 また、日蓮宗系各派の本尊(いわゆる十界曼荼羅)にも不動明王が書かれているが、愛染明王と同様、空海によって伝えられた密教の尊格であることから、日蓮以来代々種子で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。 三昧耶形は利剣(倶利伽羅剣)、羂索。種子(種字)はカーン (haaM)、或いはカンマーン (hmmaaM)。真言は、一般には小咒(しょうしゅ)、一字咒(いちじしゅ)と呼ばれる「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」(namaH samanta vajraaNaaM haaM)が用いられる。 また、真言には、大咒(たいしゅ)、火界咒(かかいしゅ)と呼ばれる「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」(namaH sarvatathaagatebhyaH sarvamukhebhyaH, sarvathaa traT caNDamahaaroSaNa khaM khaahi khaahi sarvavighanaM huuM traT haaM maaM)、 中咒(ちゅうしゅ)、慈救咒 (じくしゅ)と呼ばれる「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」 (namaH samanta vajraaNaaM, caNDamahaaroSaNa sphoTaya huuM traT haaM maaM)も知られる。 縁日は毎月28日である。
梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。チベット仏教などではこの名よりもチャンダ・マハーローシャナ ( [caNDamahaaroSaNa])即ち暴悪忿怒尊の名でより知られる。しかし、こちらは三眼で毛皮を身に纏い髪が逆立っているなど、日本に伝えられた不動明王とは図像的にやや異なるものである。 空海(弘法大師)が唐より密教を伝えた際に日本に不動明王の図像が持ち込まれたと言われる。「不動」の尊名は、8世紀前半、菩提流志(ぼだいるし)が漢訳した「不空羂索神変真言経」に「不動使者」として現れるのが最初である。「使者」とは、大日如来の使者という意味である。 密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。 また、釈迦が成道の修行の末、悟りを開くために「我、悟りを開くまではこの場を立たず」と決心して菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せたところ、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに超力で降伏したと伝えられるが、不動明王はその際の釈迦の内証を表現した姿であるとも伝えられる。穏やかで慈しみ溢れる釈迦も、心の中は護法の決意を秘めた鬼の覚悟であったというものである。他にも忿怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであると言われる。
「底哩三昧耶経」には大自在天(ヒンドゥー教の最高神シヴァ)を不動明王が調伏する説話がある。 それによると、大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。 大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。 不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。 しかし大自在天は「汝らは夜叉に過ぎぬが、私は神々の王なのだ」と言い何回も逃げ続けた。仏陀が「断罪すべし」と命ずると、大自在天とその妃(ウマー)を踏み殺し絶命させたのだった。(降三世夜叉明王) そして、大自在天の処分を尋ねると仏陀は「蘇生させよ」と言うので、法界生真言を唱えて復活させた。大自在天は喜び不思議がり「この夜叉は何者なのでしょうか?」と尋ねると、仏陀は「諸仏の主である」と答えた。大自在天は感激し、万物の全てにおいて尊い諸仏の上に、さらに諸仏の主がいることを知り、また彼が不動明王という「大王」のお陰で将来仏になれる授記をも得たのだった。 ここでは、不動明王のことを、夜叉、大王、諸仏の主と呼んでいるのが特徴的である。
蔵密教の明王像は多面多臂の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で剣と羂索(けんじゃく、縄)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれるが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。 また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。しかし底哩経などには、身体の色は青黒か赤黄とあり、頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。 人間界と仏界を隔てる天界の火生三昧(かしょうざんまい。人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないよう烈火で焼き尽くす世界)と呼ばれる炎の世界に住している。不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在であり(五大明王の中でもリーダー格である)、像容は肥満した童子形に作ることが多く(『大日経』の出典による)、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。その装束は古代インドの奴隷ないし従者の姿を基にしたものとされ、修行者に付き従いこれを守る存在であることを表している。右手に降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)、左手に羂索(けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛ってでも救い上げるための投げ縄のようなもの)を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん。迦楼羅の形をした炎)を背負い、憤怒の相で粗岩(磐石、ばんじゃく。「金剛石」とあるのでダイヤモンドの原石である)の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。 インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。日本に現存する不動明王像のうち、平安初期の東寺講堂像、東寺御影堂像などの古い像は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した、現実的な表情で製作されていた。しかし時代が降るにつれ、天地眼(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものである。
不動明王は、八大童子と呼ばれる眷属を従えた形で造像される場合もある。ただし、実際には八大童子のうちの2名、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で絵画や彫像に表されることが多い(不動明王二童子像または不動三尊像と言う)。三尊形式の場合、不動明王の右(向かって左)に制多迦童子、左(向かって右)に矜羯羅童子を配置するのが普通である。矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表されるものが多く、制多迦童子は対照的に、金剛杵(こんごうしょ)と金剛棒(いずれも武器)を手にしていたずら小僧のように表現されたものが多い。 八大童子の残り六名は、慧光(えこう)童子、慧喜(えき)童子、阿耨達(あのくた)童子、指徳(しとく)童子、烏倶婆伽(うぐばが)童子、清浄比丘(しょうじょうびく)である。これら八大童子の彫像の作例としては、高野山金剛峯寺不動堂に伝わった国宝の像がよく知られる。東京都世田谷区の世田谷山観音寺には、鎌倉時代の仏師・康円(運慶の孫)作の不動明王及び八大童子像があるが、これは奈良県天理市にあった廃寺・内山永久寺から移されたものである。 なお、不動明王の眷属として八大童子を配することは、サンスクリット経典には見えないようで、中国で考案されたものと言われている。この他に三十六童子、四十八使者と呼ばれるものがある。 また東寺のように五大明王と呼ばれる主要な明王の中央に配されることも多い。