日本水上機母艦 瑞穂 AOSHIMA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.523 MIZUHO

必ず説明文を、●●●の箇所までは、お読み下さい。
この商品の他に、全て、軍艦・艦船等の年代物プラモデルを80品程出品します。未組立多数
早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が3050年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
価値のわかる方へお譲りをしたいです。
日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
高値に設定してありますが、それで良い方はご購入ください。全て出品後しばらくしてから、一斉に値下げ予定です。(500円スタート等予定)
私のプロフィール出品リストより、他の出品物をチェックしていってください。多忙の為、1日に数点づつの出品となる事をご容赦下さい。
現在価格で構わない方は入札お願いします。(落札後発送いたします)
待たれる方は、ウォッチリスト登録してお待ち下さい。(値下げされたら通知される設定をおすすめします)
複数落札いただいた場合、可能な限り同梱いたします。落札後に承ります。必ず落札後の取引後、必ずその事を連絡ください。特に記入なければそのまま発送いたします。
長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
 
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
 尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、3050年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝 

瑞穂(みずほ/みづほ)は、大日本帝国海軍の水上機母艦(甲標的母艦)[2][16]
 
概要
軍艦「瑞穂」は日本海軍の水上機母艦[17]。有事の際には特殊潜航艇「甲標的」の母艦に改造可能だが、平時においては水上機母艦として運用された。日本海軍艦艇としては珍しく主機にディーゼルエンジンのみを搭載したが[18]、故障が続発したためディーゼルエンジン搭載予定だった大和型戦艦の建造にも影響を与えた[19] 1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時は第十一航空戦隊に所属してフィリピン攻略戦や蘭印作戦等に参加、搭載水上機を生かして各地の攻略作戦や護衛任務に従事した[17]
 
南方作戦の目途がついた後、機関整備のため内地に帰投[17]。横須賀で修理を終え、ミッドウェー作戦参加のため柱島(瀬戸内海)へ回航中の1942年(昭和17年)51日深夜[9][20]、ガトー級潜水艦のドラムの雷撃により52日午前4時頃に沈没した[17][21]。駆逐艦・潜水艦・哨戒艇・掃海艇・輸送船等は狭義の「軍艦」ではなかったため、「瑞穂」は太平洋戦争で初めて戦没した帝国海軍の軍艦となった[19]
 
「瑞穂」は日本の国の美称で、稲の穂(稲穂)がめでたく豊かに実る意味[22][23]
 
計画
建造経緯
詳細は「甲標的」を参照
第一次世界大戦後に締結されたワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮会議により列強各国は海軍休日に突入。その抜け道として帝国海軍は「条約制限外艦艇(給油艦、水上機母艦、貨客船)を建造、平時においてはそのまま運用し、有事の際には短時間のうちに航空母艦(空母)へ改造する」という方針をとった[24]。同時期、帝国海軍は酸素魚雷と『甲標的(特殊潜航艇)』の開発に成功する[25]。しかし甲標的の航続距離は非常に短く、日米艦隊決戦において、決戦海域まで甲標的を輸送する母艦が必要となった[26][27]。そこで甲標的の着想と同時に開発されたのが千歳型水上機母艦(千歳、千代田)と本艦(瑞穂)、日進《③計画艦》である[26]。なお第一次補充計画で建造が決まった潜水母艦「大鯨《龍鳳》」、計画(第二次補充計画)で建造が決まった給油艦2隻(剣埼《祥鳳》、高崎《瑞鳳》)は空母へ1カ月で改造、水上機母艦""(千歳、千代田)、水上機母艦""(瑞穂)は戦時には甲標的母艦となる艦で、最高機密の軍機艦であった[24]
 
艦型
特殊水上機母艦「瑞穂」[19]は、千歳型と同じ計画に属し、計画要領は同じで、船体主要寸法も同一である[28]。ただ後述するように主機をディーゼルのみとし、速力は22ノットを計画した[28]。これは主機の出力を制限して軍縮条約での制限20ノットとする考えだったと思われる[13]
 
航空兵装と甲標的搭載の艤装は千歳型とほとんど同様であるが、主缶(メイン・ボイラー)の煙突が必要無いので格納庫や士官居住区などが改良されて補用機が4機増し[29]、常用24機、補用8機となった[10]。水上機はカタパルトで発進する[30]。 また千歳型が発着甲板の試験のために設置した天蓋を廃止[19]、支柱の左右に渡したフラットのみを設置した[31]。その他甲標的搭載に備えたクレーンは、千歳型の場合片舷2基で共吊りしたが、本艦の場合は甲標的用クレーンは片舷1基のみとなっている[31]
 
1940年(昭和15年)、艦尾にハイン式マットを装備した[31]。これはドイツで考案実用化され、水上機母艦神威で実験が行われたもので、航行のまま水上機を揚収できるものだった[31][32]。「神威」では8ノットまでの揚収に成功し、千歳型や大和型にも搭載の計画があったが結局「神威」と本艦以外は装備されなかった[31]。使用のたびに大量の真水で洗浄してから格納せねばならず、使用機会は制限された[32]
 
兵装は高角砲が千歳型の2基から本艦は3基(艦橋前に1基、艦橋両舷に2基)に増設された[19]。艦橋前の高角砲を1番、艦橋左舷側砲を2番、艦橋右舷側砲を3番砲と呼称する[33] 25mm連装機銃も、同じく千歳型の6基に対し瑞穂型は10基に増強された[29]。機銃のうち4基は艦橋への機銃掃射を考慮して艦橋周辺に配置し[29]、残りは支柱上に3基ずつ配置した[31]
 
甲標的母艦に改造された場合、千歳型と同様甲標的12基を搭載、搭載可能水上機は24機から12機に減少する[26]。一説に開戦後に改造されたとする説明もあるが、開戦後に本艦のみを改造する意味が無く、改造は行われなかったとするのが正しいと思われる[31]
 
機関
機関は千歳型が採用していたタービンとディーゼルエンジン併用をやめ、主機をディーゼル機関のみとした[19]。これは大和型戦艦に搭載予定だった高出力ディーゼル機関の事前実験であったが、故障続発のため同型2隻(大和、武蔵)はタービン・ディーゼル混合をとりやめタービン機関のみを搭載して竣工した[19]。ディーゼル機関の排気筒は後部クレーン支基の両側に外側へ向けて設けられており、大型の煙突が無い事は本艦の外観上の特徴となって独特のシルエットを形成した[19]
 
「大鯨」や千歳型に搭載したディーゼルエンジンは1110型で10気筒であったが、これを8気筒とした118型を搭載した[13]。また1110号の単筒出力800馬力に比べ、475馬力にレーティングを下げて使用する計画だった[13]。成績は「大鯨」搭載の1110型と同様に故障が頻発[13]、ディーゼルエンジンの不具合は、本艦に深刻な影響を与えた。竣工直後は回転数を制限したため、最大発揮可能速力は17-18ノット程度であった[19]1940年(昭和15年)6月から約5ヶ月をかけて機関部の検査と修理を行い、計画値22ノット発揮可能となる[19]。それでも信頼性に欠けたため、南方作戦終了後の1942年(昭和17年)3月末から約1カ月かけての再整備で全力発揮可能となったものの[13]、その直後に米潜水艦の雷撃により撃沈された[19]
 
艦歴
太平洋戦争まで
1936年(昭和11年)1214日、帝国海軍は建造予定の水上機母艦2隻、朝潮型駆逐艦2隻を、それぞれ千代田・瑞穂・峯雲・霰と命名した[2][34]。同日附で2隻(千代田、瑞穂)は水上機母艦に類別される[35]。 本艦は神戸川崎造船所で1937年(昭和12年)51日に起工[36][21]
 
1938年(昭和13年)516日、進水[36][37]。命名式には昭和天皇の名代として伏見宮博恭王が臨席した[38]。 同日附で青木泰二郎大佐は本艦艤装員長に任命される[39] 519日、神戸海軍監督官事務所に瑞穂艤装員事務所を設置[40]。当事の神戸川崎造船所は、「瑞穂」と並行して伊号第八潜水艦や伊号第七五潜水艦、陽炎型駆逐艦7番艦「初風」を建造している[41][42] 11月中旬、臨時に瑞穂艤装員事務所を播磨造船所に移転する[43]
 
本艦は1939年(昭和14年)225日に竣工[9][36]。瑞穂艤装員事務所を撤去[44]。青木艤装員長も正式に瑞穂艦長(初代)となる[45]。第四艦隊・第十二戦隊に編入[21]。ただちに佐世保へ回航された[46]。 初陣は日中戦争だった。中国北支方面へ出動[19] 312日、第四艦隊司令長官日比野正治中将は第四艦隊旗艦を妙高型重巡洋艦3番艦「足柄」から「瑞穂」に変更した[47]。以前から千歳型水上機母艦は列強各国の注目を集めており、本艦も多数の写真を撮影されたという[19]。本艦は支那方面艦隊(司令長官は425日附で長谷川清大将から及川古志郎中将に交代)[48]の一艦として行動した。
 
同年1115日附で従来の第四艦隊は第三遣支艦隊に改編され、野村直邦中将が第三遣支艦隊長官に任命された[49]。同日附で瑞穂艦長職は青木大佐から蒲瀬和足大佐に交代[50]。後日、青木大佐は空母赤城艦長に任命され[51]、ミッドウェー海戦で「赤城」沈没後予備役に編入された。
 
1940年(昭和15年)24日、第三遣支艦隊旗艦は「瑞穂」から装甲巡洋艦「磐手」に変更[52]。本艦は予備艦に指定され[21]、横須賀に回航された[53] 61日附で連合艦隊附属となり、825日に横須賀を出発[21]97日から15日までトラック泊地に停泊し、22日に横須賀へ戻った[21]
 
1011日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[54]1015日附で蒲瀬大佐(瑞穂2代目艦長)は空母蒼龍艦長へ転任[55]。翔鶴型航空母艦1番艦翔鶴艤装員長澄川道男大佐(当時、翔鶴は横須賀で建造中)が、本艦3代目艦長に着任した[56]1115日附で連合艦隊直属の第七航空戦隊が編制される。司令官河瀬四郎少将[57]。「瑞穂」は水上機母艦「千歳」と共に同航空戦隊に編入された[21] 1210日、横須賀を出撃し、海南島や仏印方面に進出して行動した[21][58]
 
太平洋戦争
1941年(昭和16年)37日、「瑞穂」は第七航空戦隊旗艦となる[59]327日、横須賀に帰投[21] 410日附で第七航空戦隊は第十一航空戦隊に改称[60]。「瑞穂」は横須賀で修理に従事しており、作戦行動をおこなう状態ではなかった。 当事の横須賀には戦艦2隻(陸奥、長門)、第四戦隊(高雄、愛宕、鳥海、摩耶)、第2駆逐隊(夕立、五月雨、春雨)、第9駆逐隊(朝雲、峯雲、山雲、夏雲)、特務艦「宗谷」等が停泊し、横須賀海軍工廠では「翔鶴」が完成間近、剣埼型潜水母艦1番艦「剣埼(祥鳳)」が空母改造工事中、戦艦「比叡」や空母「赤城」の修理を行っていた[61] 429日、第十一航空戦隊旗艦は本艦から「千歳」に変更される[62]。機関修理と並行し、2隻(千歳、瑞穂)は日本列島沿岸を航海して訓練に従事した[58]
 
91日、河瀬少将(第十一航空戦隊司令官)は海軍水雷学校校長へ転任、後任の第十一航空戦隊司令官には第三水雷戦隊司令官藤田類太郎少将(旗艦「川内」)が任命される[63]。後任の三水戦司令官は橋本信太郎少将[63] 95日、瑞穂艦長は澄川大佐から大熊譲大佐(軍務局、情報局等勤務)に交代した[64]。後日、澄川大佐は空母飛鷹艦長や[65]、空母大鳳初代艤装員長[66]等を歴任した。
 
1124日、呉を出撃[21]122日、パラオ到着[21]。太平洋戦争開戦時、本艦は比島部隊(第三艦隊基幹。指揮官高橋伊望第三艦隊司令長官、第十六戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、第五水雷戦隊、第四航空戦隊、第一根拠地隊、第二根拠地隊等)に所属していた[67]。瑞穂搭載機は零式水上観測機12機、九四水偵3機であった。太平洋戦争緒戦ではパラオから出撃し[21][58]、フィリピンの戦い、南方作戦、蘭印作戦に従事する[58]1229日から31日にかけてパラオ滞在[21]
 
詳細は「蘭印作戦」を参照
1942年(昭和17年)14日、ダバオのマララグ湾に、フィリピン南部の攻略を終えた比島部隊主力艦(妙高、那智、羽黒、長良、那珂、神通、千歳、瑞穂、平安丸、南海丸、雪風等)は集結・停泊していた[68]。ところがB-17重爆8機の空襲を受け、「妙高」が中破[69]、「瑞穂」に損害はなかった[68] 19日午前、第二航空部隊の「千歳」と「瑞穂」はスラウェシ島最北端のメナド攻略作戦に従事するため、マララグ湾およびパキプタン水道より出撃した[70]。搭載機をもって輸送船団および第二護衛隊(第二水雷戦隊基幹)の対潜、対空直衛などにあたり、111日にスラウェシ島バンカ泊地に到着[70][21]。同地でも対潜・対空直衛・対地協力を実施した。 この日、大型飛行艇9・爆撃機4機と交戦し飛行艇2機撃墜・零観3機を喪失した[70]。なお、「瑞穂」から発進した零式水上観測機が友軍の九六式陸上輸送機1機を誤射して撃墜している[70][71]。これは海軍の空挺部隊の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(略称「横一特」)によるメナドへの第一次降下部隊324名を九六式陸上輸送機27機に各12名づつ分乗させてメナドへ向かっていた内の1機であり、搭乗員5名と降下員12名の全員が戦死した[72]。その後も対潜哨戒・上空警戒・対地攻撃支援に従事するが、飛来する連合国軍重爆(B-17B-24)に対し、水上偵察機は無力であ