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ルートヴィヒ1世

マクシミリアン1世と最初の妻アウグステの長男。父王の崩御に伴い39歳で即位。名付け親がフランスのルイ16世で、そのブルボン王朝崩壊の遠因であるナポレオンを嫌っていた。(ルイはドイツ語でルートヴィヒ)

美しいものが大好きで、ミュンヘンを世界に通用する芸術都市として発展させた。レジデンツの完成、バイエルン王立図書館建設、勝利の門建設、アルテ・ピナコテーク建設、ケーニヒ広場造営など、芸術・建築を奨励する一方、ルートヴィヒ=マクシミリアン大学をランツフートからミュンヘンに移転し、マイン川とドナウ川の間にルートヴィヒ水路を作る事業を始めた。1835年にはドイツ初となる鉄道を国内のニュルンベルクとフュルト間に敷設するなど、工業化も推し進めた。そのためミュンヘンは『イザール河畔のアテネ』と呼ばれるほど美しい街に変貌する。

また、ルートヴィヒはギリシャ独立戦争も支援し、次男オットーを1832年に初代ギリシャ国王オソン1世として送り込んだ。

もともとリベラルな考えを持ち、芸術や学問を奨励し、自主独立運動にも理解を示す人だったが、1830年代から徐々に反動的な徴候が現われ、神の恩寵を受けた君主としての立場を堅持して、民主化要求をはねつけるようになっていった。

1846年、ミュンヘンにやって来たアイルランド出身スペイン系女性ダンサーのローラ・モンテスに熱をあげ、愛人にして寵愛した上、ランツフェルト伯爵婦人なる称号まで与えた。それどころかローラは、(ルイ15世の愛妾の)ポンパドゥール夫人よろしく政治にまで口を挟むようになり、それに国王が言いなりになってしまい、内閣改造までしてしまうなど失政相次ぎ、革命の火の手が上がり、もはや退位しないことには収拾がつかなくなってしまった。民衆はローラの邸を取り囲み、追放を叫ぶなど大混乱を起こした。

1848年3月20日、退位し王位を長男マクシミリアンに譲った。

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