Hasegawa 1/700 ウォーターラインシリーズNO.220 日本航空母艦 赤城 AKAGI AIRCRAFT CARRIER THREE FLIGHT DECK
赤城(あかぎ)は、大日本帝国海軍の航空母艦[注釈 1]。
概要
軍艦赤城は、八八艦隊計画により天城型巡洋戦艦の2番艦として呉海軍工廠で建造が始まった[注釈 2]。 だがワシントン会議と軍縮条約の締結により建造中止となり、同条約の制限枠内で巡洋戦艦から航空母艦に改造された[注釈 3]。三段式空母として完成したが、後に一段全通式空母に改装された。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で沈没した。
特徴
名称
「船名#日本」も参照
赤城の艦名は群馬県前橋市の赤城山にちなんで命名された[注釈 4][注釈 5]。日本海軍の軍艦としては、摩耶型砲艦の赤城に続いて二隻目[13][12]。同型艦の天城同様、巡洋戦艦の命名基準に則り山から名前が取られ[14]、その名前のまま空母に改装された。航空母艦命名に関して明確な命名標準が設けられたのは昭和8年12月18日付 海軍大臣から侍従長宛文書「海軍大臣官房 官房機密第2417号」、およびそれに対して返信された同年12月19日付 侍従長から海軍大臣宛書簡によってである[15][16]。
三段式空母
赤城は巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合を抱えることになった[17]。 計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000トン、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった[18]。建造当初の赤城の飛行甲板はイギリス海軍のカレイジャス級巡洋戦艦改造空母フューリアス (HMS Furious, 47) の第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(赤城は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中はどの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった[19]。
また煙突は右舷に設置され、重油専焼缶の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の空母の中で後にも先にも赤城だけである。完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った加賀で改装前に使用されていたものを移設したものである[20]。
赤城と加賀は三段甲板の中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え、合計で20cm砲を10門装備する[注釈 6]。これはワシントン海軍軍縮条約の規定の上限であり、重巡洋艦と同等である[21]。当時はまだ空母という艦種ができたばかりで用法が定まっておらず、また搭載航空機の航続距離も短く性能も低かったため、空母にも砲戦の機会があると考えられたからである。なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量が大幅に減り(基準排水量で約1万トン減)、喫水が浅くなった。
機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影が公開されて、広く一般に愛されている[22]。ただし艦要目は「全長232,56m、幅28,04m、常備排水量28,100t、速力28.5ノット」と控えめな数値で公表され、搭載機数については秘密であった[23]。また三段空母時代の艦影は広く知られていたが、飛行甲板一枚に統一された近代化改装以降の姿は有名ではなく、1940年(昭和15年)に発刊された書籍でも加賀が改装後の写真を公表している一方、赤城は三段甲板時代の写真が使われていた[24]。セイロン沖海戦の前に赤城に乗艦した牧島貞一従軍カメラマンは、三段空母時代の赤城と近代化改装後の赤城の艦影が違うことに驚いている[25]。
1925年4月進水後 呉海軍工廠
1925年4月進水後 呉海軍工廠
新造公試における3段甲板の赤城。艦橋前の20cm連装砲はまだ搭載されていない。
新造公試における3段甲板の赤城。艦橋前の20cm連装砲はまだ搭載されていない。
一段甲板に改装前の赤城。下の戦艦は長門
一段甲板に改装前の赤城。下の戦艦は長門
右舷に小型艦橋を設置した改装前の赤城
右舷に小型艦橋を設置した改装前の赤城
赤城と一三式艦上攻撃機(1935年頃)
赤城と一三式艦上攻撃機(1935年頃)
一段全通式空母
大改装後の赤城。右舷中央に巨大な曲面煙突が判別できる。左舷側艦橋を設けた日本空母は本艦と飛龍のみ。
高知県宿毛湾に停泊する赤城。飛行甲板前後の傾斜部分が判る。
航空機の発達にともなって飛行甲板の延長が必要となり、先に大改装を行っていた加賀を参考に1938年(昭和13年)に全通式の飛行甲板に延長するなどの近代化改装が佐世保海軍工廠で施された。艦型は一新され、排水量も41,300t(公試状態)となった。この時、下二段は閉鎖式の格納庫甲板となり拡張されて常用の搭載機も66機に増えた。飛行甲板は中央部が水平で、艦首方向へ0.5度、艦尾方向へ1.5度の傾斜が付けられていた。 ただし赤城の改装は予算上の制約から加賀に比べると、丁寧ではなかったり略式なものにとどまり、用兵側からは不満の残る仕上がりとなった。 例えば飛行甲板では、木製の板の隙間を埋める防水充填剤が板と板の間からはみ出て、それが甲板上に黒く硬くなって残っているなど、他の空母にはこのような雑な飛行甲板の仕上げは見られなかったという[26]。旧石炭庫を居住室に転用するなど、艦内は迷路同然であった[27]。
右舷中央部にある第一煙突と第二煙突は一つにまとめられた。航空機の着艦時には煙突内に海水を噴射して煙を吸収させるため、煙突から滝が落ちているように見えたという[28]。右舷後部の居住区は煙突の排気が流れ込むため窓をあけられず、居住性の悪さから「人殺し長屋」の異名があった[29]。のち、煙突を艦橋と一体化し、煤煙を上方へ逃がす欧米空母型の艦橋・煙突を採用した隼鷹型航空母艦「隼鷹」を見た赤城の将兵が、これからは軍艦の居住性が良くなると解説した事もある[30]。また赤城では結核と赤痢を発症する兵が多く、暑さと空気の悪さのために廊下でハンモックを吊り睡眠する兵や、飛行機格納庫に寝床を作る兵が多かった[31](食事は上等であったという[32])。
艦橋は、先に全通式飛行甲板に改装された加賀では右舷前寄りに設置されたが、赤城では、将来艦上機も単葉、大型化するであろうために滑走距離も長くなる、着艦距離はワイヤーで制止されるため誘導設備が発達すればむしろ短くできるとの予想から、前寄りの位置では邪魔になると判断され、艦中央部に設置されることになった。しかし右舷のままでは煙突と重なるため、世界に類例のない左舷に艦橋が配置されることとなった(艦船は左舷接岸が世界的に規則化しているため、左舷に日本空母特有の舷側噴出し式煙突は設けることができなかった)。左舷艦橋配置は、反対舷の煙突と重量バランスがとりやすい、飛行甲板上の作業の指揮がとりやすい、格納庫が有効にレイアウトできるといったほか、同じ第一航空戦隊の加賀と並行航行する場合において、赤城が右、加賀が左と、艦橋を近接させ、連絡(発光信号等)をとりやすくできるといったメリットもあった。しかし、乱気流が発生したりと、デメリットもあった。第二航空戦隊と並走する航行序列の場合には第二航空戦隊旗艦が飛龍であったにもかかわらず右舷艦橋である蒼龍が前になり、赤城の左に位置した。しかし、赤城の左舷艦橋配置は、左方向へ指向してしまうレシプロ機においては、着艦のさい障害になる、また排煙が艦橋に流れてくるということで問題となり、これ以降の空母はすべて右舷艦橋とされている。竣工直前の飛龍はそのまま左舷艦橋で竣工しているが、翔鶴型は建造中に艦橋を右舷前寄りに設計変更された。赤城の艦橋は、艦の規模の割に小さく、大艦隊の作戦指導を行う際には問題になったとみられる[33]。
武装面では、加賀と違って旧式の十年式45口径12cm高角砲を、新式の八九式40口径12.7cm高角砲に換装・増強できなかった。設置位置も低い位置のままだったので、依然として反対舷方向は撃てなかった。九六式25mm機銃の数は中型空母の蒼龍と同じで飛龍よりも少なく、4万トン級という船体の大きさの割に、真珠湾攻撃に参加した空母6隻の中で対空火力は最も貧弱だった。三段甲板時代、中段甲板に設置されていた砲塔式の20cm砲は撤去されたが、艦尾舷側に装備した計6門の20cm砲は近代化改装後も装備していた。若手士官は「発射すると飛行甲板がめくれあがる無用の長物」と揶揄している[34]。ミッドウェー海戦で赤城は20cm砲を最低54発発射しているが[35]、飛行甲板への影響については不明である。飛行甲板に手すりはなかったが、一段低い高角砲と機銃甲板の間にポケットと呼ばれる整備兵退避場所がある[36]。さらにネットが張ってあり、落下事故を防止していた[37]。
三段の格納庫も船体の大きさの割には狭く、大蔵省の記録では戦闘機27、攻撃機53、計80、補用機40、総計120(加賀は戦闘機24、攻撃機45、計69、補用機31、総計100)となっているが[38]、実際の搭載機数は加賀、翔鶴、瑞鶴より少なかった。太平洋戦争開戦時の常用搭載機数は艦上戦闘機18機、艦上爆撃機18機、艦上攻撃機27機。加賀、翔鶴、瑞鶴はいずれも艦戦18、艦爆27、艦攻27である。航空機はエレベーターで上下するが、乗組員は左舷のタラップで飛行甲板へ上がった[29]。
各種の改装によって排水量が1万tほど増加したにもかかわらず、機関出力はあまり向上しなかったため、速力は32.1ノットから31.2ノットに低下した。
航続距離もあまり伸びなかったため、遠距離外洋航行となる真珠湾攻撃では、蒼龍、飛龍とともに作戦から外すことが計画段階で検討されたこともあった[39]。
艦歴
三段式空母
1929年に撮られた赤城。艦首に20cm連装砲塔2基が見える
赤城は日本海軍が計画した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」[40]という規模の天城型巡洋戦艦が建造されることになり、1919年(大正8年)7月17日付で1番艦と2番艦にそれぞれ天城と赤城の艦名が与えられた[注釈 7]。同日付で長良型軽巡洋艦3隻も命名され[41]、いずれの艦も艦艇類別等級表に登録された[42]。
1920年(大正9年)12月6日、赤城は呉海軍工廠で起工した[1]。完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから[注釈 2]、条約に従い主力艦としての廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになった[43]。アメリカ海軍のレキシントン級巡洋戦艦も天城型巡洋戦艦と同様の事情および経緯を経て空母へ改造され、レキシントン級航空母艦レキシントン (USS Lexington, CV-2) とサラトガ (USS Saratoga, CV-3) が就役している[注釈 8][注釈 9]。
なお、赤城の同型艦でありネームシップの天城も同様に航空母艦に改造される予定であったが[43]、関東大震災により竜骨を破損したため破棄される[46]。代艦として加賀型戦艦1番艦であった戦艦加賀が航空母艦に改造された[注釈 3][注釈 10]。
1923年(大正12年)11月19日、戦艦加賀および巡洋戦艦赤城の空母化が正式に通達された[47]。同日付で航空母艦翔鶴(初代)の建造中止が決まり[48]、航空母艦として登録された加賀、赤城と入れ替わる形で除籍された[49][50]。 1925年(大正14年)4月22日、航空母艦赤城として進水した[1][51]。
赤城は1927年(昭和2年)3月25日に竣工した[1]。1928年(昭和3年)6月、東郷平八郎元帥と岡田啓介海軍大臣等が赤城を訪れ、航空訓練を視察した[52]。1929年(昭和4年)になると山本五十六大佐(のち連合艦隊司令長官)が赤城艦長に着任しており、後年には山本元帥の乗艦としても国民に紹介されている[53]。他艦よりも汚れ、艦内清掃も行き届いていない第一航空戦隊旗艦赤城を見て同戦隊司令官高橋三吉少将が叱責したところ、松永寿雄赤城副長は「観艦式ならともかく、猛訓練を優先すれば、清掃や化粧(艦外観の塗装)が疎かになるのは当然」と反論[54]。山本艦長も「いざ実戦となったら、軍艦のお化粧よりも戦いが先だ。軍艦は散髪屋ではないし、ペンキを塗るのがその本職でもない」と副長の判断を是認した[55]。 なお山本五十六元帥について『飛行甲板から落ちそうになった飛行機を見た山本は赤城艦橋から飛び出し、飛行機の尾翼をおさえて転落を防いだ』という逸話が紹介されることがある[56]。これについて奥宮正武は、「発着艦時の艦長は艦橋から離れない」「飛行機が転落しそうになった時には、飛び出して尾翼を押さえてやりたい気持ちだった」という山本の心情が誤って伝聞されたと指摘している[56]。
1935年11月15日、赤城を三段式甲板から一段全通式甲板に変更する大改装が佐世保海軍工廠で開始される。
支那事変
1938年8月31日、赤城の改装が完了し、一段全通式空母となる。当時は1937年7月に始まった支那事変の最中であった。