岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、
旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大な
デルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった
石山城(いしやまじょう)に
宇喜多直家が入城・改築し、後に子の
宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。
[2][3]城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる
平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため
旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。
天守は4重6階の複合式望楼型で、出入り口は付属している塩蔵に設けられている。特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ
安土城天主を模したものではないかと言われているが、
羽柴秀吉による
大坂城天守を模しているという説もある。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「
白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる
姫路城と対比されることもある。
元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿がうかがえる。出典:ウィキペディア
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サイズは108×78㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケや虫食いと和紙接合部の剥がれがあります。
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