日本海軍飛行艇母艦 秋津洲 PIT-ROAD 1/700 スカイウェーブシリーズW50 AKITSUSHIMA 《二式大艇・九七大艇各1機付》SW-2800
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早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が30~50年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
価値のわかる方へお譲りをしたいです。
日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
高値に設定してありますが、それで良い方はご購入ください。全て出品後しばらくしてから、一斉に値下げ予定です。(500円スタート等予定)
私のプロフィール出品リストより、他の出品物をチェックしていってください。多忙の為、1日に数点づつの出品となる事をご容赦下さい。
現在価格で構わない方は入札お願いします。(落札後発送いたします)
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長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、30~50年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝
秋津洲(あきつしま)は、大日本帝国海軍の水上機母艦[2][19]。 秋津洲型の1番艦(同型艦は建造されず)[20]。 日本海軍の類別上は水上機母艦だが[3]、実際には大型飛行艇への補給、整備を任務とする艦艇であり、飛行艇母艦と呼ばれる事もある[21][22]。
艦名は明治期の防護巡洋艦「秋津洲」に続き2代目[23][24]。秋津洲とは、日本の別称(「記紀」(「古事記」「日本書紀」)に記された日本の本州の古名)[25][26]。
概要
軍艦秋津洲(あきつしま、2代目)は、日本海軍が太平洋戦争で運用した水上機母艦[27]。類別上は水上機母艦だが[19][3]、飛行艇の整備補給や救難をおこなう飛行艇母艦である[22]。二式飛行艇を艦尾のクレーンでつりあげ、後甲板に搭載して整備することが可能だった[28]。ただし、飛行艇を搭載したままでの航行は想定していない[28]。
秋津洲は神戸川崎重工業で1940年(昭和15年)10月末から建造がはじまり、1942年(昭和17年)4月29日に竣工した[27]。第十一航空艦隊の第二十五航空戦隊に編入され、5月中旬にサイパン島へ進出[27]。続いてニューブリテン島ラバウルに進出し、飛行艇部隊(横浜海軍航空隊)の支援をおこなった。8月8日には、ガダルカナル島の米艦隊攻撃にむかう第八艦隊とすれちがった(第一次ソロモン海戦)[29]。その後、ショートランド泊地を拠点にガダルカナル島の戦いにともなうソロモン諸島の作戦に従事した[27]。
1943年(昭和18年)2月以降、内南洋諸島で行動する機会が増えた。6月末、幌筵島に進出してキスカ島撤退作戦の支援をおこなった[27]。その後は中部太平洋諸島で行動。1944年(昭和19年)2月17日、トラック島空襲に遭遇して損傷[27]。メレヨン島とパラオ諸島を経由して、横須賀に帰投した[27]。日本海軍はパラオ大空襲で工作艦明石を喪失[30]。そこで秋津洲を工作艦に改造した[18]。捷号作戦にそなえ、秋津洲は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)に編入された[31][32]。
9月上旬、秋津洲はヒ75船団に同行して九州を出撃、リンガ泊地所在の第一遊撃部隊(通称、栗田艦隊)との合流をめざす[32]。 9月21日、マニラの日本軍は米軍機動部隊艦載機の攻撃をうけ、駆逐艦皐月等が沈没、大損害を受けた[33][34]。秋津洲は特務艦神威等と共にカラミアン諸島コロン島に退避する[33][35]。9月24日、ふたたび空襲をうけ給糧艦伊良湖[35]等と共に撃沈された[33][36]。
計画
日本海軍では、真珠湾攻撃の5年前から航空機によるハワイ攻撃作戦の研究が組織的に進められていた。
1936年(昭和11年)に海軍大学校がまとめた文書、「対米作戦用兵ニ関スル研究」には、「開戦前敵主要艦艇特ニ航空母艦AL(=真珠湾)ニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母(艦載機)並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」とある。もし対米戦が始まっても、アメリカ艦隊が出撃して来なければ、帝国海軍の想定した速戦即決の艦隊決戦は起きない。そこで敵の根拠地である真珠湾を航空機で(宣戦布告前に)奇襲攻撃することで開戦し、アメリカ艦隊に早期の出撃を強要することを考えたのである。その奇襲攻撃には空母艦載機の他に、航続力の大きい飛行艇(大艇、中艇)を使用するつもりだったのである。
この文書には、続いて「而シテ現状ニ於テハ大艇、中艇ハGK(=マーシャル諸島)東端付近ヨリ出発シ予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス」とある。この手段を、水上艦艇で具体化したものが、飛行艇母艦「秋津洲」であり、潜水艦で具体化したものが、「潜補型」であった。
水上機戦力に力を入れた帝国海軍は、大型飛行艇(九七式飛行艇や二式飛行艇)を洋上補給・整備するための新造飛行艇母艦(移動基地)を要望した[22]。そのため水上機母艦「神威」を改装したが十分でなく、昭和14年度計画(④計画)において新艦(仮称第131号艦)を建造することとなった[37][38]。当初、飛行艇母艦大型(9,950トン)と小型飛行艇母艦(2,550トン)の二種を検討したが、最終的に中型艦案にまとまった[38]。 また昭和17年度の改⑤計画では秋津洲型3隻が建造予定だったが[20]、戦局の変遷により建造中止になった[37][39]。開戦の準備として発動された戦時急備計画(マル急計画)でも同型艦(第303号艦、予定艦名「千早」)の建造が決まり[40][12]、昭和17年7月25日に起工されたが、昭和17年秋には建造中止となった[28]。このほかに、1万1000トン級の艦隊随伴型大型飛行艇母艦、3300トン級の小型飛行艇母艦も計画された[22]。さらに福田啓二造船中将により排水量3万トン、全長200m、幅24mの巨大艦も検討されたが、いずれも太平洋戦争の勃発により実現しなかった[22]。
艦型
「秋津洲」は排水量5000トン程度であり、大型飛行艇1機を艦上で整備するという構想には無理があった[28]。当初の計画では、艦尾のスロープから大型飛行艇をウインチで船体後部の飛行艇収容区画へ引き揚げる計画だった[22][38]。ところが川西航空機が開発した二式飛行艇(重量31トン)をウインチで引き揚げるのは無理という判断により、設計を変更して艦尾に35トン電動クレーンを装備した[28]。このクレーンが秋津洲型の最大の特徴となった[28]。艦内には航空隊員用の居住施設、飛行艇に搭載する魚雷(36本)・爆弾・機銃弾等の弾薬庫、軽質油用タンク、工作施設を備え、通信設備も充実していた[13]。なお秋津洲型は大型飛行艇を艦上に収容した場合、搭載機が航行中に損傷したり、あるいは操艦そのものが困難となるため、揚収中は航行しない事を前提に運用されている[28]。
「秋津洲」が施していた特異な迷彩塗装は、同艦の初代艦長黛治夫大佐の影響であった[18]。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明している[29][41]。 またラバウル停泊時、空襲を回避するため、連日の爆撃から航海士が米重爆の水平爆撃のクセを見抜き、黛艦長に進言、独自の回避行動を実践した[42]。これは停泊中に空襲を受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖を伸ばしておき、敵機が仰角38度になった時に前進一杯を号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であった[43][42]。ソロモン諸島で行動する時には、座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦の襲撃を防いでいる[44]。黛は単艦指揮官としての工夫を「秋津洲流兵法」[45]、航海方法については「秋津洲流戦場航海術」と称していた[46][44]。
機関は22号10型ディーゼル4基を搭載、2組ずつフルカンギアで接続し2軸とした[9]。その他補助缶にホ号艦本式缶(空気過熱器付)2基を搭載した[9][8]。電源は200KVAディーゼル発電機2基、2770KVA同1基を搭載、交流電源だった[10]
大戦中は飛行艇用の広い後甲板とクレーンを利用して魚雷艇数隻を搭載し前線への輸送を行った[18]。1944年(昭和19年)3月に横須賀海軍工廠で損傷修理を行った際に21号電探を前部マスト上に1基装備、機銃を増備し25mm3連装機銃6基、同単装3挺となった[12]。また後甲板に軌条3組を設けて、魚雷艇または大発などの運搬設備を設けた[12]。日本海軍は1944年前半に工作艦船のほとんどを喪失したため[18]、同年8月に呉海軍工廠で臨時の工作艦任務のための改造を行った[12]。
艦歴
建造経緯
1940年(昭和15年)10月29日、神戸川崎重工業で起工[47][38]。 1941年(昭和16年)6月30日、正式に「秋津洲」の艦名が与えられる[2]。同日附で水上機母艦に類別[3]。 7月25日、昭和天皇の名代として久邇宮朝融王臨席のもと、秋津洲は進水[38][48]。 10月15日、日本海軍は岩淵三次大佐を秋津洲艤装員長[49]に任命する(岩淵は10月15日まで練習巡洋艦香椎艦長)[50]。11月5日、神戸川崎重工業に秋津洲艤装員事務所を設置[51]。
1942年(昭和17年)3月25日附で秋津洲艤装員長は黛治夫大佐に交代する[52](岩淵大佐は4月20日より戦艦「霧島」艦長)[53]。 黛は4月3日に到着して、岩淵から職務を引き継いだ[54]。当時、海軍省人事局第一課長中瀬泝大佐は黛に対し、単艦行動の多い「秋津洲」の任務は危険であること、建造予定3隻のために試用実験報告を提出するよう伝えたという[54]。
4月18日、アメリカ軍はドーリットル空襲を敢行した[55][56]。 4月21日、神戸沖で公試中の「秋津洲」は「B-25を発見、砲撃して撃退した」と報告する[57]。「秋津洲」は岩国空の九六式陸上攻撃機2機を高角砲で誤射しており、この陸攻には被害は生じなかったものの、高角砲の破片が淡路島航路の連絡船「天女丸」周辺に降り注ぎ、それが機銃掃射と誤認されて報告されたことから空襲警報発令という事態に至った[58]。 友軍機が敵味方識別信号を発しなかったため、黛の判断で発砲した結果だった[59]。
「秋津洲」は4月29日に竣工[60][61]。同時附で秋津洲艤装員事務所を撤去[62]。黛艤装員長は正式に秋津洲艦長(初代)となる[63]。横須賀鎮守府籍[64][65]。ただちに横須賀に回航された[60]。
飛行艇母艦
1942年(昭和17年)4月30日、「秋津洲」は横須賀に到着した[66]。 5月5日、横須賀鎮守府司令長官平田昇中将は「秋津洲」を視察、御真影の伝達式も行われた[67]。 5月15日、「秋津洲」、「ぶら志゛る丸」[68]、「第一号哨戒艇」、「第二号哨戒艇」は横須賀を出撃し[69]、サイパン島へ向かった[70][71]。 途中、「ぶら志゛る丸」[69]以下ミッドウェー作戦従事中の輸送船団と別れる(「ぶらじる丸」、哨戒艇2隻は19日サイパン着)[72][73]。サイパン入港直前、「秋津洲」は米潜水艦から雷撃されるが命中しなかった[74][75]。 入港後、黛はサイパン島守備隊(第五根拠地隊、司令官春日篤少将)に事情を説明したが信用されなかったという[74]。潜水作業により、左舷後部(推進器軸上)に魚雷命中(不発)の痕跡があった[76]。第五根拠地隊司令官はサイパン島周辺に敵潜水艦がいるため攻略船団にグァム島へむかうよう意見具申したが、認められなかった[68]。ミッドウェー攻略船団はサイパン島に集結したが[68]、
「秋津洲」はサイパンに一時寄港したのち[77][78]、5月20日にサイパンを出発した[79]。5月24日午後2時にニューブリテン島のラバウル到着[80][81]。第25航空戦隊(司令官山田定義少将)の指揮下に入る[27][80]。 第25航空戦隊には九七式飛行艇を装備した横浜海軍航空隊[53]が所属しており、「秋津洲」は第5空襲部隊・第一特務隊(指揮官黛治夫秋津洲艦長)として[82][83]、航空部隊の補給・整備・救難に従事することになった[82][84][85]。 またラバウル所在航空隊(第十一航空艦隊)の雷撃訓練や、ラバウルを空襲する連合軍爆撃機への対空戦闘にも協力した[86][85]。爆撃回避後、浮かんだ魚は艦内神社(秋津洲神社)に奉納されたあと、乗組員の食卓に供された[42]。