旧日本海軍甲型駆逐艦 陽炎型 雪風 TAMIYA 1/300 YUKIKAZE

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早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が3050年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
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日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
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長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
 
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
 尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、3050年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝

 
雪風(ゆきかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[1]。陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦)の8番艦[2]
 
概要
太平洋戦争(大東亜戦争)当時の主力駆逐艦であった甲型駆逐艦(陽炎型駆逐艦、夕雲型駆逐艦)38隻の中で、雪風は唯一終戦まで生き残った。日本海軍の駆逐艦は激戦地に投入され非常に損耗率が高かったが、雪風は第16駆逐隊や第17駆逐隊の姉妹艦(初風、天津風、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風)、第27駆逐隊の時雨等と共にスラバヤ沖海戦から坊ノ岬沖海戦(戦艦大和特攻)まで16回以上の主要な作戦に参加した。その中でも雪風は戦果を上げつつ一度も大きな損傷を受ける事なく終戦を迎え奇跡の駆逐艦と呼ばれた。戦中より雪風のその幸運ぶりは広く知られ、呉の雪風、佐世保の時雨と謳われた。
 
終戦後、雪風は日本海軍解体に伴い除籍後中華民国に賠償艦として引き渡され丹陽と改名、同国海軍の主力艦として活躍した[3]。台湾において1971年(昭和46) 12月に解体されたとされるがはっきりとした解体年は不明。
 
戦歴
太平洋戦争以前
雪風は陽炎型8番艦(計画の仮称艦名第24号艦)として佐世保工廠で建造された。
 
1938年(昭和13年)82日に起工[4]
 
1939年(昭和14年)124日、雪風(ユキカゼ)と命名された[1]。佐世保海軍工廠で建造された陽炎型駆逐艦は、8番艦の雪風と12番艦の磯風のみである[5][6][7]。 特筆すべき事故・遅延・計画変更もなく、雪風の建造は順調に進んだ[3]324日、雪風は進水[4]。雪風進水式は一般に公開され、約1万人の観衆が参列した[3]。佐世保鎮守府司令長官中村亀三郎中将は「雪風の夜こそねらはん時なれや いさを立てよと船おろしする」という和歌を贈った[8]
 
1940年(昭和15年)120日、雪風は竣工した[9][4]
 
竣工後は呉鎮守府に所属し[10]、陽炎型3番艦黒潮、陽炎型7番艦初風と第16駆逐隊を編制した[11][12]。同年1011日、16駆(雪風、初風、黒潮)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加した[13] 1026日に陽炎型9番艦天津風が第16駆逐隊に編入、1115日に黒潮が第15駆逐隊に転出すると[14]、代替として陽炎型10番艦時津風が1215日に加わった。開戦直前の第16駆逐隊は雪風、時津風、初風、天津風の陽炎型駆逐艦4隻で構成されており[15]、雪風と時津風が第一小隊、天津風と初風が第二小隊という編制であった[16]。司令駆逐艦は雪風[16]。また第16駆逐隊は第8駆逐隊、第15駆逐隊、第18駆逐隊と共に第二水雷戦隊(旗艦神通)に所属していた[16]。加えて、第16駆逐隊、第24駆逐隊と共に、軽巡長良を旗艦とする第四急襲隊を形成していた[17]
 
太平洋戦争緒戦
開戦時の雪風駆逐艦長は飛田健二郎中佐であった。雪風の初陣は1941年(昭和16年)1212日、フィリピンのレガスピに対する上陸支援であった[18]。第16駆逐隊第二小隊(天津風、初風)は、神通と共に空母龍驤航空隊支援のため別行動であった。その後1224日にはラモン湾上陸支援に参加し、P-40ウォーホーク戦闘機の機銃掃射で重油タンクが損傷、軽傷者6名が出た。魚雷発射管にも被弾したが爆発はしなかった[19][20]1227日、ミンダナオ島のダバオで工作艦明石にて修理を受けた[21]29日パラオに帰投[20]14日、第16駆逐隊第一小隊はダバオに進出し第16駆逐隊第二小隊と合流する[20]B-17爆撃機の空襲を受け重巡洋艦妙高が損傷するが、雪風は飛田艦長の判断により爆撃回避に成功した[22]
 
1942年(昭和17年)19日、第五戦隊司令官高木武雄少将指揮する東方攻略部隊に所属し、第二護衛隊(第二水雷戦隊)としてダバオ湾を出撃した[23]111日にはメナド攻略作戦の一環であるケマ上陸支援に参加[24]24日ケンダリー[25]31日アンボン[26]220日チモール島の各上陸作戦支援[27]に従事した。
 
詳細は「スラバヤ沖海戦」を参照
227日からは初の海戦となるスラバヤ沖海戦に参加し、海戦後、漂流中の約40名のデ・ロイテルなどの乗組員を救助した[28][29] 33日、スラバヤ北方海域で米潜水艦パーチへの共同攻撃に参加しパーチを自沈せしめた[30]
 
詳細は「西部ニューギニア戡定作戦」を参照
315日に雪風や水上機母艦千歳、軽巡洋艦鬼怒、駆逐艦時津風などからなるN攻略部隊が編成され、同部隊は3月末から西部ニューギニア戡定作戦に従事した[31]。雪風は29日から31日にかけて第2号哨戒艇(旧峯風型駆逐艦灘風)、 第39号哨戒艇(旧樅型駆逐艦蓼)と共にセラム島北岸のブラ攻略作戦に参加[32]41日よりニューギニア島への攻略作戦が開始されると、雪風は千歳、鬼怒らと共に1日には同島のファクファク攻略作戦[33]、続いて4日にはソロン攻略作戦[34]で陸戦隊の揚陸を支援して作戦を成功に導いた。6日に時津風や第1号哨戒艇(旧峯風型駆逐艦島風)らとも合流し、N攻略部隊のほぼ全艦艇でハルマヘラ島(ジャイロロ島)方面の攻略に向かう。7日に同島西海岸沖のテルナテ [35]、翌8日にはジャイロロの攻略を行い[36]、ハルマヘラ島を占領。10日には再びニューギニア島のマノクワリに対し上陸作戦を行い、これらの地域に駐留していた連合軍を降伏させた。この作戦中、マノクワリ攻略(412日)において、陸軍の上陸部隊が輸送船の漂流により到着が遅れたため[37]、緊急に雪風、時津風の乗組員が上陸部隊を結成してマノクワリを占領した[38]17日から18日までセルイ島掃討作戦[39]19日から20日はサルミ掃討作戦に参加[40]420日までにN作戦は成功裏に終了した。
 
423日、明石を護衛してアンボンを出港し[41]430日に日本本土呉軍港に戻った[42]522日、日栄丸、あけぼの丸を護衛して日本を出発、サイパンへ進出した[43]。日栄丸の護衛は元々別の駆逐艦が行う予定だったが、519日、連合艦隊司令部からサイパン方面で潜水艦の被害が急増し危険であるとの伝達を受け、雪風、時津風に護衛担当が変更された[44]。出発当日に初風も加わり[45]、船団は526日、無事にサイパンへ到着、護衛任務は成功した。
 
6月のミッドウェー海戦には第二艦隊司令長官近藤信竹中将指揮する第二艦隊攻略部隊の一員として参加した。輸送船団の護衛として防空戦にあたるものの、南雲機動部隊主力空母4(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)の喪失により撤退する[46]。雪風の乗組員は炎上する赤城を視認している[47]。 雪風ら第16駆逐隊は第18駆逐隊(霞、霰、陽炎、不知火)と共に神通以下第二水雷戦隊として行動し、それぞれ613-15日トラック泊地滞在、20-21日横須賀へ着いた[48][49]。以後、横須賀にて修理整備作業に従事[50]。駆逐艦長は菅間良吉中佐に変わる[51]714日、大規模な艦隊再編制により雪風以下第16駆逐隊は第十戦隊に所属することになった[52][53]。隼鷹型航空母艦2番艦飛鷹の訓練の随伴任務と一度のサイパン方面護衛任務についたのち、第16駆逐隊の僚艦時津風と共に輸送船南海丸を護衛を命じられた。南方へ航海中、途中で第八艦隊旗艦・重巡洋艦鳥海(第八艦隊司令長官三川軍一中将座乗)と合同[54]。鳥海護衛任務を第9駆逐隊(朝雲、峯雲)と交替し、730日(一部著作では726[55])、ラバウルへ到着した[56][57]。既に雪風と時津風は重巡洋艦最上(ミッドウェー海戦で大破)の本土回航護衛部隊に指定されており、輸送・護衛任務完了後トラック泊地に向かった[58]。トラック到着後、最上と明石を護衛して85日正午トラック泊地を出発、各艦は811-12日に佐世保・呉へ到着した[59][60][61]。この護衛作戦中に、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動してガダルカナル島及びフロリダ諸島に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まった。第16駆逐隊は88-9日の第一次ソロモン海戦に参加できなかった[62]
 
ソロモン海での戦い
94日、大鷹型航空母艦2番艦雲鷹を護衛して横須賀を出港[63]、トラックに進出した[64]。サボ島沖海戦の翌日1012日、雪風は第16駆逐隊の僚艦天津風と共にヌデニ島のグラシオサ湾(サンタクルーズ諸島)を偵察、砲撃した[65]。ヌデニ島はアメリカ軍の飛行艇基地などがあり、911日以来日本軍は潜水艦や駆逐艦によって三度に渡って砲撃を加えていた[66]
 
詳細は「南太平洋海戦」を参照
雪風ら第16駆逐隊の4隻は、1021日、第三艦隊(南雲機動部隊)を護衛してサンタクルーズ海域に進出。1026日からの南太平洋海戦には第一航空戦隊の翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、第七戦隊の熊野、第4駆逐隊の嵐、舞風、第17駆逐隊の浜風、第61駆逐隊の照月らと共に参加した。当初、雪風は第三艦隊旗艦の翔鶴の直衛だったが[67]21日から26日にかけて機動部隊が南下、北上を繰り返す間に艦隊の陣形は変更され、24日には翔鶴の無電代理を行った第4駆逐隊の嵐[68]が翔鶴の直衛兼通信担当に、雪風は空母瑞鶴の護衛になっている[69]26日、連合軍空母エンタープライズ及びホーネットの艦載機の空襲を受けた。当初瑞鶴はスコールに隠れて敵が来なかったため、雪風は翔鶴の護衛に加わり対空戦闘を行った[70]。翔鶴、瑞鳳が被弾により撤退した後は瑞鶴を護衛してアメリカ軍機と交戦した。この後、瑞鶴に収容された瑞鳳艦載機搭乗員は「失礼ながら高みの見物しかできなかったが、見事な戦闘だった」と瑞鶴、雪風の戦いを振り返っている[71]。戦闘後は味方機の収容に当った。日没後、雪風と瑞鶴は敵に発見される危険を冒しながら探照灯により空母の位置まで味方機を誘導し、海面に不時着した機の搭乗員を救助した[72]。この一連の功績により、海戦後、山本五十六連合艦隊長官より感状を授与されている[73]。戦闘後、第16駆逐隊や第17駆逐隊の姉妹艦は損傷艦の護衛任務に従事して内地へ帰投、トラック泊地に残る第16駆逐隊は雪風と天津風の2隻となった[74]
 
詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照
11月、ガダルカナル島の戦局は日本軍不利に傾いていた。日本海軍連合艦隊司令部は第十一戦隊(司令官阿部弘毅中将)の金剛型戦艦2隻(比叡、霧島)によるガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃を行うことを決定した。雪風は第16駆逐隊の僚艦天津風、第十戦隊旗艦長良、第61駆逐隊の照月、第6駆逐隊の暁、雷、電、第四水雷戦隊旗艦朝雲、第2駆逐隊の村雨、五月雨、夕立、春雨、第27駆逐隊の時雨、白露、夕暮らと共に飛行場砲撃を行う挺身艦隊に編入され、ガダルカナル島に進出した[75]。第十戦隊の任務は、第十一戦隊直衛ならびに敵警戒艦艇の排除であった[76]。アメリカ軍も日本軍を迎撃すべく集結し、両軍の間で第三次ソロモン海戦が発生した。1112日深夜から1113日未明にかけての第三次ソロモン海戦第一次夜戦は予期せぬ夜間艦隊戦となり、大混戦となる。斉藤通信士(雪風艦橋勤務)によれば、激しい撃ち合いは一瞬で終わり、魚雷を発射したかも定かではないという[77]。この戦闘で、第16駆逐隊からは天津風が大破(缶室浸水、戦死45名・負傷25名、速力16ノット)という被害を出した[78]。雪風も友軍艦艇の誤射により若干の浸水が発生した[79]。アメリカ軍に対しては、0015分に巡洋艦に対し照射砲撃、0025分にマハン型駆逐艦に対し照射攻撃、『何れも撃沈確実と認む』と報告した[80]。実際のアメリカ軍被害とは異なるものの、雪風は防空巡洋艦1隻(長良、春雨と共同)・駆逐艦1隻(長良と共同)を撃沈したと認定された[81]
 
第一次夜戦終了後、雪風は操舵不能となった挺身攻撃隊旗艦比叡を駆逐艦照月、第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)と共に護衛せよとの命令を受けた。なお、挺身攻撃隊の指揮権を継承した第十戦隊司令官(旗艦長良に乗艦)が比叡の護衛を命じたのは照月、時雨、白露、夕暮の4隻である[82]。戦場離脱を命じられ一隻で航行中だった雪風はその途中で長良と遭遇、手旗信号によって比叡が航行不能に陥り火災発生中であると伝えられると、比叡の救援に急行した。長良は破損により艦が傾斜した状態であったため、海域を離脱した[83]。比叡の救援に向かう途中、被害箇所(医務室)の修理を行った際弾丸の破片が見つかったが、弾底部に佐世保軍需部の印があった事から味方の誤射であったと判った。雪風砲術科の兵は「比叡の副砲の弾だろう」と推測している[84]
 
午前420分、雪風は最も早く比叡の元に到着した[85]。午前55分、日の出と共に制空権を握るアメリカ軍の空襲が始まる[86]。午前6時、4隻の駆逐艦(照月、時雨、白露、夕暮)が到着し、護衛駆逐艦は5隻になった[87]。比叡は通信能力を喪失していたため、第十一戦隊司令部は最初に現場海域に到着した雪風[88]への移乗を決定[89]。午前615分、比叡に乗艦していた阿部中将らが移乗し、雪風は戦隊旗艦となった[90]。この時、戦艦用の大きな中将旗をマストに掲げた為に敵機の目標となったとある[91]。至近弾によって汽缶に亀裂が入り発電機も故障した雪風は最大速力発揮不可能となり、爆弾の破片を頭部に受けた白戸水雷長が重体となった。時雨以下各艦も損害が累加していった[92]。比叡にも複数の爆弾と魚雷が命中し舵復旧の見通しも立たず、曳航するはずだった霧島も退避したため、司令部は救援の見込みがなくなった比叡の処分を命じた。雪風は比叡乗組員の救助を行い[93]、阿部司令官は第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)に魚雷2本の用意を命じ、比叡の雷撃処分を命じた[94]。だが、山本連合艦隊司令長官より処分中止の命令があり[95]、第27駆逐隊の司令駆逐艦時雨に中止命令が出た[96]。一方で、第十一戦隊司令部と連合艦隊司令部との間では、比叡の処分を巡ってやりとりがあった[97]。その後、ヘンダーソン飛行場砲撃を企図する第七戦隊(指揮官西村祥治少将/鈴谷、摩耶)との同士討ちをさけるため一旦避退を決定[98]。雪風以下各艦は比叡を残して現場海域を離れた。深夜、連合艦隊より比叡の状況を確認せよとの命令がありサボ島海域に戻り30分ほど捜索するが、比叡を発見できず、第十一戦隊は「比叡は沈没した」と判断してソロモン海を離れた[99]。雪風戦闘概報によれば、比叡護衛中における被害は以下の通り[100]
 
一.12日夜戦後130400より1700迄(照月.二十七駆0600合同)比叡の護衛に従事す。其の間約1時間間隔にて十数回に亘り敵雷爆機戦闘機水偵及B17延機数100機以上の執拗なる雷爆撃銃撃を受けたるも(不明)協同戦果撃墜せし敵機3機以上。
二.爆撃至近弾並に機銃掃射に依り、探照燈・2番砲塔左砲使用不能、一号発電機被弾の為不具合、船体数ヶ所に小破口小浸水、其の他全力発揮に支障なし。重傷兵1、軽傷准士官以上1・兵3
三.消耗弾数(残弾)主砲374526)、機銃11505098)。収容せる比叡の乗員准士官以上(司令官艦長を含む)29名・下士官兵283名、准士官1・下士官1・兵1収容後絶命。
なお、吉田俊雄(元軍令部参謀で、第3次ソロモン海戦には参加していない)などの一部著作では、比叡は雪風により雷撃処分されたとしている。だが戦闘詳報や雪風乗員の証言には魚雷発射の記録はなく、雷撃処分を命じられたのは前述のとおり第27駆逐隊の時雨、白露、夕暮であり雪風には下されていない[101]。雪風では比叡護衛中の空襲によって白戸水雷長が頭部を負傷し重体であり、雷撃処分指令を受理できる状況ではなかった[102](白戸大尉は開戦以来雪風の水雷長を務めたが、この負傷により退艦。頭部弾片の摘出はできず、戦後まもなく逝去[103])。 比叡艦長の西田正雄大佐は、第三次ソロモン海戦から一週間後に作成した戦闘詳報の草稿の中で「雪風に収容された後、GF司令部から「比叡の処分待て」の命令があり、それならば比叡に帰還すべきと申し出たが許されず、遂に比叡をそのままにして海域を離れた」と記し、比叡の雷撃処分が実行されていないと証言している[104]。当時の雪風水雷員兼暗号担当は連合艦隊からの命令により比叡処分は中止となったと述べている[105]他、この時比叡を護衛していた照月主計長も駆逐艦による雷撃処分は中止されたと証言している[106]。比叡の雷撃処分は「比叡のキングストン弁は開放されていなかった」と言う吉田俊雄の疑念に基づく考察だったが[107]、比叡発令所所長の柚木哲や[108]、比叡砲塔長の安田喜一郎が自沈のため比叡の注水弁が開かれたと言う証言を残している[109]。吉田俊雄も後年の著書で「比叡はキングストン弁開放による自沈」と記し「雪風が雷撃処分を行った」とする自らの見解を翻している[110]
 
比叡沈没後、雪風以下損傷艦は第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加できずトラック泊地へ向かった。18日にトラック泊地帰投後、十一戦隊司令部は雪風から戦艦陸奥に移乗して同隊解隊手続きに入った[111]。雪風は工作艦明石から修理を受けた[112]129-10日、雪風は初雪と共に空母飛鷹を護衛して内地に到着した[113]。天津風も1220日に呉軍港に帰還した。
 
1943年(昭和18年)110日、第16駆逐隊の初風がガダルカナル島輸送作戦でアメリカ軍魚雷艇と交戦し大破、長期修理となった。119日、雪風は大和型戦艦2番艦武蔵、第一航空戦隊の空母瑞鶴、瑞鳳、軽巡洋艦神通、第十駆逐隊の秋雲、夕雲、巻雲、風雲と共に内地発[114][115]123日トラックに到着した[116]。雪風は第十駆逐隊と共に南東方面部隊に編入され、さらに外洋部隊(第八艦隊)に編入となり、ラバウルへ向かう[117]。この航海の途中、米潜水艦に撃沈された海軍徴傭船平洋丸の短火艇が漂流している所を発見し、艇に乗っていた生存者50名を救助した[118]。救助した中に南方慰問団の団員が含まれており、この年の220日、この慰問団がトラック泊地入港中の大和艦内で演芸会を開催した際、雪風乗員は招待を受けている[119]
 
第十六駆逐隊
1943年(昭和18年)21日より3回におよぶガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加、大成功を収めた[120]。第一次作戦では巻雲が沈没、巻波が大破した。第二次作戦では舞風が大破し、江風と黒潮が損傷した[121]。第三次作戦では磯風が大破した[122]。駆逐艦が次々と損傷する激しい任務を雪風は無傷で完遂した[123]
 
最終の第三次作戦を前に、この作戦を直接指揮した第八艦隊司令部は駆逐艦の出撃を渋っている[124]。二回の撤収で既にアメリカ軍に作戦が見破られたとの懸念に加え、連合艦隊は駆逐艦の喪失激減に悩んでおり、第八艦隊司令部は、第三次作戦は方式を変更し、駆逐艦ではなく大発などの舟艇により島伝いに脱出させようとの意見を出した。これに対し陸軍側は、田沼参謀次長、第十七軍の宮崎参謀長らが海軍の作戦会議に出席し、舟艇による脱出は成功の可能性が下がるとして駆逐艦の出撃を要請[125]。議論が平行線を辿った時、雪風の菅間艦長と浜風の上井艦長から「予定通り駆逐艦でやるべき」との発言があり、臨席していた駆逐艦長全員もこれに賛同し、第三次作戦も駆逐艦隊で行う事が決定した[126]。南東方面艦隊司令部は参加する駆逐艦の四分の一(五隻)沈没、四分の一損傷の合計十隻の損害を予想したが、はるかに少ない損害でガダルカナル島撤収作戦は予想以上の戦果をあげた[127]
 
2月末、雪風は第16駆逐隊の僚艦時津風と共に第三水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦白雪に乗艦)の指揮下に入り、第11駆逐隊の白雪、第8駆逐隊の朝潮、荒潮、第9駆逐隊の朝雲、第19駆逐隊の浦波、敷波と共に輸送船団8隻を護衛してラエへ向かった。32-3日、アメリカ軍・オーストラリア連合軍機の空襲(反跳爆撃)によって輸送船団が全滅し、3000人が戦死するビスマルク海海戦が発生した[128]32日の空襲の際、旭盛丸が沈没すると、雪風、朝雲は旭盛丸に乗っていた陸軍第58師団兵918名を救助し、一旦船団を離れ目的地のラエに急行する。雪風に乗せていた第51師団師団長以下司令部30名と共に無事揚陸させた[129]。雪風と朝雲は翌3日早朝、輸送船団に復帰するが、この日も連合軍爆撃隊の空襲を受け輸送船団は全滅、護衛の駆逐艦も半数(8隻中4隻)が撃沈された[130]。雪風は時津風乗員を収容した後(時津風は34日、日本軍航空隊およびアメリカ軍航空隊の爆撃で沈没)、朝雲、敷波、浦波と共に戦場を一度は離脱。浦波と救援に駆け付けた初雪に救助した兵を移乗させた後、深夜、朝雲、敷波と共に再び戦闘海域に戻ると、漂流中の荒潮を発見し生存者100名を救助した[131]
 
34日、雪風はカビエン寄港の後5日ラバウルに到着する。救助した兵を病院船まで送ると、6日朝に工作艦山彦丸に横付けして艦の整備を始めたが35日の ビラ・スタンモーア夜戦で沈没した2隻の駆逐艦(村雨、峯雲)に代わりコロンバンカラ方面への輸送任務に出撃するよう命令を受けたため同日午後整備を中止[132]37日早朝、雪風はラバウルを出発し、38日、朝雲、長月、浦波、敷波と共にコロンバンガラ島輸送作戦を実施する[133][134]13日、今度は朝雲、長月と3隻でコロンバンガラ島輸送に従事する[134]。この時、35日のビラ・スタンモーア夜戦で撃沈された村雨と峯雲の生存者(第2駆逐隊司令と種子島洋二村雨艦長含む)を収容し、ショートランド泊地へ送り届けた。その後、約2か月間ソロモン海域で輸送任務に従事した。
 
この頃、第16駆逐隊で無事に行動していたのは雪風だけで、天津風は修理の後に南東方面部隊に編入、初風は7月まで修理を行っていた。42日から3日にかけて雪風は天霧、望月と共にサンタイサベル島レカタ基地への輸送任務に従事。329日の天霧らの輸送分と併せて兵員300名、弾薬、糧食など250トンを同基地へ運んだ[135]。同3日、レカタを出発するとブインで第38号哨戒艇と合流後、亜豊丸、宝運丸、厚丸を護衛してラバウルへ向かった。5日ラバウル着[136]10日には雪風、五月雨、夕雲、秋雲によるニューギニア島フィンシュハーフェンの輸送任務が実行される。雪風と五月雨はニューブリテン島南側航路でフィンシュハーフェンを目指したが、途中で偵察隊に発見されたためラバウルへ帰投。同島北側航路でフィンシュハーフェンへ向かった夕雲、秋雲はニューブリテン島ツルブへ目的地を変更した[137]12日、雪風と五月雨はニューブリテン島北側を通って再びフィンシュハーフェンへ向かったがツルブへ目的地を変更し、13日に兵員、物資を揚陸した[138]18日、水上機母艦神川丸をトラックまで護衛。21日にトラック到着[139]427日、第16駆逐隊司令が荘司大佐から島居大佐に交代となり、雪風に着任した[140]
 
1943年(昭和18年)5月、アリューシャン列島アッツ島にアメリカ軍が上陸してアリューシャン方面の戦いが不利になったため、トラック泊地の連合艦隊主力艦艇は順次内地へ帰投する。 53日、雪風は第十戦隊の阿賀野、夕雲、秋雲と共に第一航空戦隊の瑞鶴と瑞鳳を護衛してトラック泊地を出発[141]58日に呉に到着した[142]
 
511日、大和、榛名、雲鷹、沖鷹らの護衛のため大分沖に移動の後、12日、大和、榛名を護衛して呉に入港(雲鷹、沖鷹は長波らに護衛され横須賀に向かった)。ここで乗員に休暇が与えられる予定だったが、アリューシャン方面の戦局が予想以上に悪化したため、雪風にも第一航空戦隊護衛として出撃命令が下る[143]523日までに木更津沖に向かい、北方作戦出撃の準備を進めるが、29日にアッツ島陥落の報を受け出撃は中止[144]。横須賀へ回航の後、61日に改装のため呉に入港した[145]。呉での改装では25mm機銃の増設とともに、当時の最新兵器であった逆探が装備されている。
 
昭和十八年中盤以降の行動
Imperial thumb
1943年(昭和18年)7月中旬、ラバウル湾内にて給油艦鳴戸から撮影された雪風。後方の2隻は同型の陽炎型駆逐艦(谷風、浜風)[146]
615日、前進部隊に編入された[147]616日、雪風は第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊の熊野、鈴谷、空母龍鳳、大鷹、冲鷹、軽巡洋艦五十鈴、第7駆逐隊の潮、曙、漣、第27駆逐隊の時雨、夕暮、有明、第17駆逐隊の浜風、谷風、秋月型駆逐艦新月、夕雲型駆逐艦清波らと共に16日に横須賀を出港、南方へ進出した[148][149][150]621日に到着後、雪風、浜風は第四水雷戦隊(旗艦長良)の指揮下に入り[151]、四水戦司令官の指揮下でナウル島への輸送任務を命じられる[152][153]。第一次輸送隊(浜風、谷風、第十四戦隊の那珂と五十鈴)は22日にトラックを発ち、25日ナウル島に到着。浜風のみ同地に残った[153]。雪風は長良と共に第二次輸送隊として23日にトラックを出撃[154]264時半頃にナウル島へ到着、輸送人員と物件を揚陸した。同日846分、雪風、長良は浜風と合流してナウル島を出発、トラックへの帰途に就く。同隊は1020分頃に敵の大艇を発見するが、何事もなく遠ざかった[155][156]27日、トラックへ向かう長良、雪風、浜風は、ナウルへ向かう時雨、駆潜艇28号、秋葉山丸とすれ違った[157]。トラックに戻ると、ラバウルへ向かう重巡洋艦鳥海の護衛任務を命じられる[158]630日、雪風は第四水雷戦隊の指揮下を離れて外南洋部隊に属し[159]、鳥海、谷風、雪風、涼風、浜風、江風(故障で引き返す)はラバウルへ向かった[160][161]。その後、ブインとラバウルを往復した。75日、浜風、谷風護衛の元にブインからラバウルへ回航中の給油艦鳴戸を迎えるため、早朝2時に出港。同日正午頃、鳴戸、浜風、谷風と共にラバウルに帰投すると、直ぐに第十一戦隊航空司令部の人員150名と物件、大発一隻を輸送する新たな任務が命じられ、同日夕刻、鳥海、夕暮と共にラバウルを出港。翌76日の正午頃、ブインに入泊し人員と物件を揚陸した[162]
 
75日、クラ湾夜戦で増援部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官が新月 (第三水雷戦隊旗艦)沈没時に戦死し、第三水雷戦隊司令部も全滅する。新たに鳥海艦長有賀幸作大佐が増援部隊指揮官に任命され、雪風は鳥海の代艦として、76日から9日まで、わずか3日間だけであったが第八艦隊旗艦を務めている(八艦隊長官鮫島具重中将の所在はブインの第一根拠地隊司令部)[163][164]。後任の第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将(前職、戦艦金剛艦長)は77日附で任命され[165]710日に旗艦川内に着任した。第三水雷戦隊の準備が整うまでの間、連合艦隊は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将、旗艦神通)を増援部隊指揮官に任命し、南東方面部隊への作戦参加を命じる。79日、第八艦隊長官鮫島中将は鳥海に将旗を掲げ、鳥海、川内、警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)から編成される水上部隊を率いてブーゲンビル島・ブインを出撃、コロンバンガラ島輸送には成功したが米艦隊と遭遇せず、水上戦闘は生起しなかった。警戒隊の雪風は夕暮と共にニュージョージア島ポリ岬のアメリカ軍に対して艦砲射撃を行った[166]