日本高速戦艦 比叡 Hasegawa 1/700 ウォーターラインシリーズNO.110 HIEI JASHIP

必ず説明文を、●●●の箇所までは、お読み下さい。
この商品の他に、全て、軍艦・艦船等の年代物プラモデルを80品程出品します。未組立多数
早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が3050年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
価値のわかる方へお譲りをしたいです。
日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
高値に設定してありますが、それで良い方はご購入ください。全て出品後しばらくしてから、一斉に値下げ予定です。(500円スタート等予定)
私のプロフィール出品リストより、他の出品物をチェックしていってください。多忙の為、1日に数点づつの出品となる事をご容赦下さい。
現在価格で構わない方は入札お願いします。(落札後発送いたします)
待たれる方は、ウォッチリスト登録してお待ち下さい。(値下げされたら通知される設定をおすすめします)
複数落札いただいた場合、可能な限り同梱いたします。落札後に承ります。必ず落札後の取引後、必ずその事を連絡ください。特に記入なければそのまま発送いたします。
長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
 
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
 尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、3050年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝 
比叡 (ひえい)は、大日本帝国海軍(以下日本海軍)の巡洋戦艦[3]、後に戦艦[4]、練習戦艦[5]となる。
 
概要
軍艦 比叡は金剛型戦艦の2番艦である。計画時は装甲巡洋艦だったが、イギリスに発注され同地で建造された金剛型巡洋戦艦1番艦金剛の技術を導入し、日本で建造された。巡洋戦艦として竣工したが、改造により戦艦へ艦種変更された。第一次世界大戦後の海軍休日にともなう軍縮条約(ロンドン海軍軍縮会議)により武装や装甲、機関の一部を撤去し、練習艦として運用される[9]。一方で、昭和天皇の御召艦として周知され、親しまれることになった[9]。軍縮条約失効後の改装時に大和型戦艦のテスト艦として新技術が導入され、第二次世界大戦(大東亜戦争)においては南雲機動部隊の一艦として行動した。1942年(昭和17年)1112日、第三次ソロモン海戦第1夜戦で損害を受け、日中の空襲により放棄され沈没した[10]。練習戦艦のまま除籍[11]
 
艦名
比叡の艦名は京都の鬼門に位置する比叡山にちなんで名付けられた[12]。艦内神社として同山山麓の日吉大社が奉祀された[13]。『比叡』の名を持つ日本海軍の軍艦としては、金剛型コルベット比叡に続く二代目[14]。戦後、海上自衛隊のはるな型護衛艦「ひえい」に引き継がれた。
 
艦歴
巡洋戦艦比叡
 
大正元(1912)年1121日、巡洋戦艦「比叡」は進水。進水式では即位間もない大正天皇の行幸で命名が行われたという。写真は進水後に工事を続けている比叡。[15]
1906年(明治39年)10月、イギリスが画期的な戦艦(いわゆる弩級戦艦)ドレッドノートを就役させると、日本海軍が建造中だった薩摩型戦艦をはじめ、世界各国の保有戦艦は前弩級戦艦として一挙に旧式化した[16]1906年(明治39年)、同じくイギリスがインヴィンシブル級巡洋戦艦を完成させると、日本海軍が1905年(明治38年)に就役させたばかりの筑波型巡洋戦艦や1907年(明治40年)就役の鞍馬型巡洋戦艦も旧式装甲巡洋艦の烙印を押された[17]。斎藤実海軍大臣はイギリスの技術導入もかねてヴィッカースに装甲巡洋艦を発注、同社は弩級戦艦エリンを基礎に巡洋戦艦を設計し、金剛型巡洋戦艦1番艦金剛の建造が開始された[18]
 
仮称艦名卯号装甲巡洋艦は1911年(明治44年)65日、部内限りで比叡(ひえい)と命名され[19]、「金剛」より10ヶ月遅れた114[20]、横須賀海軍工廠で「卯号装甲巡洋艦」として発注・起工[21][22]1912年(大正元年)1121日の比叡進水式には大正天皇が臨席した[23]。比叡は卯号巡洋戦艦として進水し[24]、命名式後に軍艦 比叡となった[25][26]。同日附で巡洋戦艦として登録[27]。竣工・引渡[20]1914年(大正3年)84日である[28]。佐世保鎮守府に入籍した。なお巡洋戦艦金剛が艦艇類別等級表に登録されたのは1913年(大正2年)816日だったため、書類上は伊吹比叡金剛という順番だった[29]
 
 
大正31914)年824日に横須賀で撮影された金剛型巡洋戦艦2番艦「比叡」。第一次世界大戦中の一枚で、前日に日本はドイツに宣戦布告。比叡は艦隊に合流するためこの直後、佐世保に向かった。[30]
横須賀海軍工廠では建造に先駆けて起工の半年前からガントリークレーン延長作業を開始し、船体工事と並行して進め、進水の半年前に完了したので装甲の装着には支障がなかったが、進水後第四ドックの拡張工事が完了していなかったため、呉に回航して入渠し艦底を清めてから公試を実施した[20]
 
 
1927年に撮られた比叡。
第一次世界大戦による日本の対ドイツ参戦により、比叡は竣工後1ヶ月で早速東シナ海方面へ出動している[31]。イギリスは日本に金剛型巡洋戦艦4隻の欧州戦線投入を求めたが、日本は拒否した[32]1916年(大正5年)61日、英国海軍とドイツ海軍の間にユトランド沖海戦が勃発し、イギリスの巡洋戦艦3(クイーン・メリー、インヴィンシブル、インディファティガブル)とドイツ巡洋戦艦1隻(リュッツオウ)が失われた[33]。巡洋戦艦の脆さが露呈した海戦により世界各国は戦艦の水平防御力強化対策を行ったが、日本海軍はユトランド沖海戦の戦訓を踏まえた超弩級戦艦・長門型戦艦を筆頭とする八八艦隊(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)の建造にとりかかっており、金剛型巡洋戦艦の補強を行う予算はなかった[34]。比叡は各国の思惑をよそに、1919年(大正8年)の北支沿岸警備、1920年(大正9年)のロシア領沿岸警備、1922年(大正11年)の青島・大連警備、セント・ウラジミル警備、1923年(大正12年)の南洋警備・支那沿岸警備、関東大震災救援物資輸送任務など、諸任務に投入されている[35]
 
1927年(昭和2年)730日附で高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮、海軍少尉)[36]が比叡配属となる[37]。あまりにも特別扱いされるため、親王の比叡に対する印象は悪かった[38][39]。『私は比叡の油虫』と自嘲した程である[40][41]。同時期、天皇は戦艦「山城」を御召艦として小笠原諸島や南洋諸島を巡航しており、親王も比叡から山城に派遣された[42]824日、連合艦隊夜間演習中に美保関事件が発生する[36][注釈 14]。比叡と古鷹は大破した軽巡洋艦那珂を護衛して舞鶴へ移動した。91日、殉職者合同葬儀を実施[43]121日、宣仁親王は中尉進級と共に装甲巡洋艦八雲乗組(副砲分隊士)に補職され[36]、比叡を離れた[44]
 
練習戦艦に改装
 
練習戦艦比叡。煙突が1本減り、4番砲塔が撤去されている。
列強各国は戦艦の大量建造と維持に多額の予算を投じたが、やがて軍縮の気運が高まった。1921年(大正10年)、ワシントン海軍軍縮条約により大型艦の建造を自粛する海軍休日が始まる。軍縮の影響は比叡にも及んだ。比叡は1929年(昭和4年)1015日より呉海軍工廠にて第一次改装に着手するが、ロンドン海軍軍縮条約成立により戦艦1隻が練習戦艦へ改装されることになる。そのため、金剛型で工事の一番遅れていた比叡が選ばれた[9]。工事は4番主砲と舷側装甲の撤去及び機関の変更が行われ1932年(昭和7年)1231日に完了[2]。翌1933年(昭和8年)11日に練習戦艦に類別変更された[45]。この工事により要目は以下のようになった。外見上の特徴は4番砲塔を撤去したことで、撤去跡にバラスト500 tを搭載して艦のバランスが崩れることを防いでいる[46]。なお舷側装甲は廃棄されず、将来を見越して倉庫で保管されていたという[47]。なお1934年(昭和9年)925日に軍令部が制作した昭和十五年末(条約決裂後)の国防要所兵力表で、既に比叡の戦艦復帰の方針が示されている[48]
 
基準排水量:19,500 t
主缶:ロ号艦本式大型2基、同小型3基、同混焼缶6
出力:16,000馬力
速力:18 kt
兵装
35.6cm連装砲3
15.2cm単装砲16
8cm単装高角砲4門(後日12.7cm連装高角砲4基に交換と推定される)[2]
航空兵装、水雷兵装は全廃された。改装中の1931年に横須賀鎮守府に移籍している。
 
御召艦改装
 
比叡艦内御座所。
練習戦艦当時の比叡で勤務した経験を持つ吉田俊雄は当時の姿を『お年寄り』[49]、『生き残る為に、身をやつす。そんな悲痛な感じが比叡にあった』と表現し[50]、後の艦長である西田正雄も改装された比叡を見て涙ぐんだという[51]。他方、井上成美は生涯で最も愉快な時期を比叡艦長時代とし、海軍省軍務局長時代には御召艦比叡の油絵を飾っていた[52]。比叡は練習戦艦となった際の兵装の撤去により艦内に余裕のあること、また艦隊所属でないためスケジュールの組みやすいことから昭和天皇の御召艦として利用された。1933年(昭和8年)5月には展望台を設けるなど、御召艦用施設の設置工事を横須賀工廠で行った。比叡はこの年の横浜沖大演習観艦式と1936年(昭和11年)神戸沖特別大演習観艦式、また戦艦に復帰した第二次改装直後の1940年(昭和15年)1011日における紀元二千六百年特別観艦式の合計3回、観艦式での御召艦を務めている。また1935年(昭和10年)には宮崎、鹿児島で行われた陸軍特別大演習への行幸時[53]に、更に同年4月の満州国皇帝 愛新覚羅溥儀の訪日の際にも御召艦となっている[54]1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府の井上成美参謀長が米内光政司令長官に「万一の場合は陛下を比叡に御乗艦願いましょう」と進言しており、より深刻な事態になった場合は昭和天皇が「比叡」から指揮を執る事態もありえた[55]。同年には北海道で行われる陸軍大演習に際し、天皇を横須賀から小樽まで送り届けた。