文庫です。 きれいなほうです。
春琴抄
盲目の三味線師匠春琴に仕える佐助の愛と献身を描いて谷崎文学の頂点をなす作品。幼い頃から春琴に付添い、彼女にとってなくてはならぬ人間になっていた奉公人の佐助は、後年春琴がその美貌を何者かによって傷つけられるや、彼女の面影を脳裡に永遠に保有するため自ら盲目の世界に入る。
単なる被虐趣味をつきぬけて、思考と官能が融合した美の陶酔の世界をくりひろげる。巻末に用語、時代背景などについての詳細な注解、および年譜を付す。
著者の言葉
作家も若い時分には、会話のイキだとか、心理の解剖だとか、場面の描写だとかに巧緻を競い、そういうことに夢中になっているけれども、それでも折々、「一体己(おれ)はこんな事をしていいのか、これが何の足しになるのか、これが芸術と云うものなのか」と云うような疑念が、ふと執筆の最中に脳裡をかすめることがある。……
猫と庄造と二人のおんな
一匹の猫を中心に、猫を溺愛している愚昧な男、猫に嫉妬し、追い出そうとする女、男への未練から猫を引取って男の心をつなぎとめようとする女の、三者三様の痴態を描く。人間の心に宿る“隷属"への希求を反時代的なヴィジョンとして語り続けた著者が、この作品では、その“隷属"が拒否され、人間が猫のために破滅してゆく姿をのびのびと捉え、ほとんど諷刺画に仕立て上げている。
巻末に用語、時代背景などについての詳細な注解、および解説を付す。
本文より
「リリー」
と云って、鰺の一つを箸で高々と摘まみ上げる。リリーは後脚で立ち上って小判型のチャブ台の縁(ふち)に前脚をかけ、皿の上の肴をじっと睨(にら)まえている恰好は、バアのお客がカウンターに倚りかかっているようでもあり、ノートルダムの怪獣のようでもあるのだが、いよいよ餌が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧そうな眼を、まるで人間がびっくりした時のようにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はそう易々(やすやす)とは投げてやらない。
「そうれ! 」……(本書9ページ)
※ノートルダムの怪獣…パリにあるノートルダム大聖堂の外壁上層部を飾る奇怪な鳥や獣の像。中でも、1850年頃の改修に際して鐘楼の欄干に設置された、頬肘を突いて町を見下ろす翼と角のある怪獣(通称「思索者」)が有名。