日本軽巡洋艦 鬼怒 TAMIYA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.321 KINU  JAPANESE LIGHT CRUISER

必ず説明文を、●●●の箇所までは、お読み下さい。
この商品の他に、全て、軍艦・艦船等の年代物プラモデルを80品程出品します。未組立多数
早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が3050年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
価値のわかる方へお譲りをしたいです。
日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
高値に設定してありますが、それで良い方はご購入ください。全て出品後しばらくしてから、一斉に値下げ予定です。(500円スタート等予定)
私のプロフィール出品リストより、他の出品物をチェックしていってください。多忙の為、1日に数点づつの出品となる事をご容赦下さい。
現在価格で構わない方は入札お願いします。(落札後発送いたします)
待たれる方は、ウォッチリスト登録してお待ち下さい。(値下げされたら通知される設定をおすすめします)
複数落札いただいた場合、可能な限り同梱いたします。落札後に承ります。必ず落札後の取引後、必ずその事を連絡ください。特に記入なければそのまま発送いたします。
長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
 
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
 尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、3050年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝 

鬼怒(きぬ)は、日本海軍の軽巡洋艦。長良型の5番艦である。 艦名は川の名で、鬼怒川から名づけられた[3]
 
艦歴
鬼怒は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として1922年(大正11年)11月に神戸川崎造船所で完成した。
 
192212月、第二艦隊 (日本海軍)第五戦隊に編入され、その後、第一艦隊第三戦隊、第二艦隊第二水雷戦隊に属した。
 
193010月、完成したばかりの呉式二号二型射出機が、艦艇では初めて鬼怒に装備されて射出実験が繰り返された。この呉式二号二型は小型機用の火薬式射出機であり、後に呉式二号三型改一として実用化され5500トン型軽巡各艦に装備されることとなる射出機の原型である。冒頭の写真はこの呉式二号二型射出機を装備していた時点の写真である。1年間の実験ののち、193110月に同装置は神通に移設された。
 
19344月、5番主砲と6番主砲の間に呉式二号三型改一射出機を装備し艦載機を水上機1機とする。不要となった滑走台跡に九三式13mm4連装機銃1基を装備(のちに滑走台は完全に撤去され改めて艦橋中央前部に機銃台が設けられて九三式13mm4連装機銃はここに設置された)。
 
193411月から一年間、海軍機関学校の練習艦となった。
 
193511月、第二艦隊第二潜水戦隊(司令官大和田芳之介少将)の旗艦となり、翌年12月、第一艦隊第八戦隊に編入された。
 
19378月、支那事変(日中戦争)のため中国沿岸に出動した。
 
19414月、連合艦隊附属第四潜水戦隊(司令官吉富説三少将)の旗艦となる。
 
太平洋戦争
太平洋戦争開戦時は「鬼怒」(旗艦)、第十八潜水隊、第十九潜水隊、第二十一潜水隊、特設潜水母艦「名古屋丸」からなる第四潜水戦隊は第五潜水戦隊、第六潜水戦隊第十三潜水隊とともに馬来部隊の潜水部隊(指揮官は第四潜水戦隊司令官吉富説三少将)を構成していた[4]。修理中であった第二十一潜水隊を除く第四潜水戦隊は1120日に広島湾から出航し、1126日に三亞に着いた[4]。第十八潜水隊と第十九潜水隊は121日に三亞から出撃し、「鬼怒」も124日に出撃した[5]。「鬼怒」と125日に出撃した第五水雷戦隊旗艦「由良」はともにプロコンドル島南方で行動した[6]
 
128日に戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を中心とするイギリス艦隊がシンガポールから出撃し、129日に潜水艦「伊号第百六十五潜水艦」がこれを発見した[7]。「鬼怒」は九四式水偵を発艦させ、この機はイギリス艦隊を発見した[8]。馬来部隊指揮官小沢治三郎中将は水上部隊を集結させて夜戦を行なおうとし、第三水雷戦隊と軽巡洋艦「鬼怒」、「由良」の第七戦隊への合流を命じた[9]。同日、「鬼怒」は小沢中将直率の馬来部隊主隊(重巡洋艦「鳥海」、駆逐艦1隻)と合流した[10]。しかし、イギリス艦隊の反転により水上部隊による攻撃は断念され[11]、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は1210日のマレー沖海戦で基地航空隊の攻撃により撃沈された。1215日、第十三潜水隊は馬来部隊から除かれた[12]
 
次いで英領ボルネオ作戦、第二次マレー上陸がおこなわれた。英領ボルネオ攻略部隊、マレー上陸部隊は1213日にカムラン湾から出撃し、「鬼怒」も「鳥海」とともに出撃した[13]。「鬼怒」は1217日にボルネオ攻略作戦支援を命じられて1219日に第七戦隊第一小隊と合流し、クチン攻略部隊を護衛した[14]
 
1226日、第五潜水戦隊は南方部隊潜水部隊に移された[15]
 
12月末から第二十五軍および第十五軍の一部のシンゴラ、バンコクへの輸送が行われ、「鬼怒」は主隊と共に194215日にカムラン湾から出撃して18日まで支援を行なった[16]130日からはボルネオのレド飛行場への人員、物件の輸送が行われ、それらを運ぶ「富士川丸」と「辰宮丸」を「鬼怒」と駆逐艦「叢雲」、第四十四掃海隊が護衛[17]130日にサイゴンから出発し、22日にパマンカットに着いた[17]211日、「鬼怒」はカムラン湾に帰投した[18]217日に「鬼怒」は出撃し、第二十一航空戦隊が進出するケンダリーへの人員、物件を運ぶ「名古屋丸」をスターリング湾まで護衛した[19]
 
194231日、鬼怒はジャワ作戦に協力中、敵機の爆撃を受けて4名が戦死した。同月、第2南遣艦隊第16戦隊旗艦となった。
 
315日に水上機母艦「千歳」や駆逐艦「雪風」、「時津風」などとともにN攻略部隊を編成し、同月末から西部ニューギニア戡定作戦に従事[20]N攻略部隊はアンボンに集結し、329日夜から30日早朝にかけて出撃した[20]。「鬼怒」は331日のブラ攻略、44日のソロン掃蕩、419日のサルミ掃蕩に参加[21]422日にN攻略部隊はマノクワリに集結完了して作戦を終了し、翌日N攻略部隊の編制が解かれた[22]
 
5月、呉に帰投して入渠整備を行った。
 
9月、「鬼怒」と「五十鈴」は陸軍の輸送に従事した[23]。「鬼怒」は第二師団の歩兵第十六連隊本部、第九中隊、歩兵砲一小隊、独立速射砲大隊の一中隊、通信中隊の計357名を乗せた[24]。「鬼怒」と「五十鈴」は913日にバタビアから出航し、アンボン経由で920日にラバウルに到着[25]。陸軍部隊の一部を降ろし、また青葉支隊司令部約80名を乗せるとショートランドへ向かい、922日に到着した[26]。陸軍部隊を降ろすと、「鬼怒」は前進部隊に編入された「五十鈴」と別れ、南西方面に戻った[27]
 
19434月、鬼怒は南西方面艦隊に編入される。5月、リンガ泊地の調査を行った[28]。続いて第5師団の兵員などをバボへ輸送し、610日にマカッサルに入港[29]
 
敵潜水艦による被害増加に対し、戦艦「大和」や第十六戦隊などの水偵をパラオへ派遣し対潜掃蕩にあたらせる命令が621日に出された[30]。それにより、「鬼怒」と「球磨」の水偵はスラバヤからマカッサル、ケンダリー、ミリなどを経て、76日にパラオに着いた[31]
 
623日、鬼怒を含め軽巡洋艦4隻が在泊していたマカッサルにアメリカ第5空軍第90爆撃団のB-2416機来襲[32]。鬼怒は左舷側に至近弾があり、多数の破口が生じて後部の倉庫や機械室に浸水した[33]。人的被害は戦死3名、負傷者17名であった[33]。旗艦は球磨に変更となり、鬼怒は球磨と駆逐艦敷波の護衛でスラバヤへ移動し、625日に入港[34]。同地で720日まで修理を行い、それからマカッサルとタラカン経由で82日に呉に到着し、本修理が行われた[34]
 
1944年、数度に分けて鬼怒の対空兵装の強化改装が行われ、5番主砲の撤去、7番主砲の撤去と跡に12.7cm連装高角砲の装備、射出機の撤去と跡に25mm三連装機銃の装備、25mm機銃を三連装・連装・単装多数装備、九三式13mm連装機銃の再装備などが行われた。なお、鬼怒への酸素魚雷搭載については計画のみあったものの魚雷発射管の換装も改造も行われず、沈没まで九〇式空気魚雷を使用していた。
 
19441月、鬼怒と北上はポートブレアへの陸兵輸送を行った[35]2隻は123日にシンガポールを出港し[36]125日にポートブレアに到着[35]。陸兵を降ろし、同日シンガポールへの帰途についたが、27日にマラッカ海峡の入り口でイギリス潜水艦テンプラーの雷撃により北上が被雷して航行不能となり、鬼怒は北上をシンガポールまで曳航した[37]
 
19441018日、捷一号作戦により栗田艦隊とともにリンガ泊地から出撃[38]。途中のブルネイで、レイテ島への兵員輸送に従事するため鬼怒、重巡洋艦青葉、駆逐艦浦波からなる第16戦隊は栗田艦隊と別れてマニラへ向かった[39]。その途中の1023日に青葉がアメリカ潜水艦ブリームの雷撃により損傷し、鬼怒は航行不能となった青葉を曳航して同日中にマニラに着いた[40]。鬼怒が参加する輸送作戦はミンダナオ島カガヤンからの歩兵第41連隊の輸送であり、鬼怒と浦波の他輸送艦5隻が参加した[41]。鬼怒と浦波は1024630分にマニラを出発したが、7時から10時にかけてアメリカ空母搭載機による3次に渡る空襲を受けて鬼怒では死傷者47名を出した[42]。翌日にはB24爆撃機による空襲があったが鬼怒に損害は無かった[43]。鬼怒と浦波は3時間遅れの2516時にカガヤンに到着し、兵員を乗せると1730分に出港した[44]。鬼怒は340名を乗せていた[45]。輸送艦は鬼怒と浦波の到着前にすでにオルモックへ向けて出港していた[45]。鬼怒と浦波はボホール島の西側を通る迂回航路を取って[46]10264時にレイテ島オルモックに着き兵員を下ろした[47]。鬼怒と浦波は5時にオルモックを離れてマニラへ向かい、続いて輸送艦も出港し内3隻は鬼怒と浦波に続航した[47]。同日1015分、パナイ島とマスバテ島の間に達したころからアメリカ第7艦隊の護衛空母搭載機による攻撃を受けまず浦波が沈没[48]。鬼怒も14時過ぎには航行不能となり1730分ごろに沈没した[49]。後続の輸送艦が2隻の生存者を救助し、第9号輸送艦が鬼怒乗組員129名、第10号輸送艦が第16戦隊司令官左近允尚正中将以下350名以上を救助した[50]。もう1隻、第6号輸送艦も生存者を救助したと思われるが記録がない